O JUN 展 まんまんちゃん、あん

2016年4月16日(土)~7月3日(日)10:00-18:00 会期中無休・入場無料

O JUN

撮影:山本糾

行きつ、戻りつ: O JUNの「まんまんちゃん、あん」

近藤由紀

O JUNの絵画の多くには、人物や風景、日常的な事物――時にあまりに身近過ぎて違和さえ感じさせるような事物――が描かれている。描かれているモチーフはそれと判別できる時もあれば、角度や描き方によって抽象化された線や色の塊に見える時もある。肉付けや陰影のない平板な彩色や筆の動きやその痕跡が顕わな筆致、簡略化され記号化されたような図像や強い印象を与える画面の余白は、描かれた図像をその背景や文脈から切り離し、空中に放り投げているかのような印象を与える。描かれた図像は、それが何であるかを指示しようとすると、そのイメージと名前の間の、あるいはイメージと意味の間の互いに向かい合うまっすぐな線が、出会う直前でわずかにずらされ、その結合が回避されているように落ち着かない。そう感じさせるのは、形と線、図と色が同じ強さで眼前に交互に立ち現れることによって、描かれたイメージと物質としての絵の間を視線が揺れ動くからだけではなく、その図像自体が、偶然と必然の狭間で出現するイメージとして、図像に対する「意味」が発生する直前の事物として描かれているからではないだろうか。

本展はO JUNの2003年から2015年の間に制作された油彩画、本展のために制作された新作2点を含む近年のクレヨン画、そして2006年から継続的に制作されているガラス板と挟み鉄フレームに嵌められて展示される作品《遊園》のシリーズからの数点、そして手製の合金ペンで壁面に直描きされた滞在制作によるドローイングによって構成された。

展覧会タイトルの「まんまんちゃん、あん」は、関西方面で墓や仏像の面前や、食事の前など何かに「手を合わせる」際に子供が発する幼児語に由来するという。「南無阿弥陀仏」から転じたともされているが、作家はこれを子供の頃耳にした上方の漫才師の決め台詞として記憶していた。その言葉は意味も分からず記憶にとどまっていた音であり、意味が分からなかったからこそ、それを独自に解釈した個人的な記憶と結びついた未分類の、しかし鮮烈な言葉として残っていたのだろう。それが不意をついて出現した。

ある言葉あるいはイメージと記憶の奇妙な結びつきは、O JUNの作品においてしばしばみられる。O JUNに作品の背景や、描かれた図像のきっかけを聞いていると、偶然耳にした事件や目にした出来事、誰かが不意に発した言葉をきっかけに持つ作品がしばしば登場する。しかしその体験は、独自の解釈によって内在化され、本来の背景やさらには作家が付与した意味さえもそぎ落とされた形として抽出されている。展覧会のタイトルとなった漫才師の決め台詞として記憶されていたこの言葉もまた、作法を伴う行為に付随する言葉としてその本来の意味や語源を解体させながら日常生活に溶け込み、使われている言葉である。それはO JUNの作品におけるイメージの生成あるいは解体の過程を想起させる。こうした着地点をずらされ、放り出されているようにみえる図像だが、それは肩透かしとも違う。O JUNはインタビューの中で作品について、「構図とか構成を意識すると、たぶん絵はダメなんだろうなと思うんです。(中略)『描いてしまった』っていうことが、(中略)描かれた図なり像が宙ぶらりんになろうが、描かれてなんだか必死にその画面の中にへばりついている、そういう状態の方がまだいい」[1]と述べているが、それは構成や構図、ある種の約束事によって図像をそこに描くのではなく、記憶の結びつきや身体感覚などによって血肉化したイメージをある種の必然性によって捉えるということを意味しているのではないだろうか。制作の過程での偶然と必然によって結びついた出来事と作品における形は、着地点をずらされたイメージとして白い余白にくっきりと描かれている。

 

展覧会では、ギャラリー外側の壁面に様々な年代の油彩画が一直線に並べられた。それらは物語性や脈絡を持たずに配置されている。いや、もしかしたら作家の内には何らかの結びつきはあったのかもしれないが、それは表には現れていない。鉄フレームというある種同質の物質性をもって並置される《遊園》の展示と比べると、キャンバスに描かれた油彩画は、個別の質感をもち、個々の世界を完結させながら並置されている。その並置は、それぞれの画面の未到着の結末と、図像の緊張感がリズムとなり、完結した個別の作品世界同士の互いの関係性が奇妙な行間を生み出している。

それらが完成した作品の組み合わせによって生成される事態であるとすれば、内側壁面に描かれたドローイングはイメージ自体が生成する場として捉えられた。大きな壁面にパフォーマンスでしばしば使用される合金ペンで「落書きを基本として」描かれた線は、ある特定のイメージを描こうとして出てきたものではなかっただろう。落書きのように体を用いて描かれたぐにゃぐにゃとした曲線は、「うんこ」のような形になった。作家はこの線について、子供の頃の「顔がきれいだけれど、つまらない自慢話しかしない」ある種の両義性をもつ男児と彼が口にした「いろは坂」の記憶を結び付けた[2]。「うんこ」のような形には顔や手足がつき、最終的には本当に落書きのように様々な服装、様々な行為をしているうんこ頭の人々の群れが壁面に描かれた。ここでの主役はそのくねくねとした曲線とそこから派生する記憶やイメージが結びつくかつかないかのギリギリのところで作り出された一つの形なのであろう。ドローイングによって取り出された形は、最後にはうんこ頭を持つ肖像としてクレヨンによって「清書」され、鉄フレームに嵌められ《横顔 Profile》と題された。

ACACでの会期と重なって開催された東京のvoid+で行われたO JUNの展覧会では、クレヨンで描かれた作品が、鉄フレームがある状態とない状態の両方で展示されていた。鉄フレームに嵌められた作品は、完成したフレームによってそのイメージ自体の物質感がはく奪され、非物理的なイメージとしての強さを得る。一方額装されていないクレヨン画は、毛皮をはぎ取られた獣のように、紙やクレヨンといった現実にそれを構成する物質の存在感が顕わで、その対比はイメージが現実と虚構の間を行きつ、戻りつ揺れ動いているようにみえた。これに対しACACでのドローイングのうんこ頭と《横顔 Profile》からは、作家の手と内的作用によって起こるイメージの生成の過程を想像させた。

これらのドローイング作品は《糞世界》と題された。そして作品は会期半ばに開催されたワークショップにおいて、同じ手製の合金ペンを持った参加者たちのほとんど暴力的なほどに上書きされた「落書き」によって潰された。同じペンの使用は、O JUNの線と参加者の線の区別を難しくし、重ねられた線には優劣や高低といったヒエラルキーが失われていく。囲まれて図になった線を「絵」として特別視せず、体から生み出された衝動の痕跡のような線がすべての線を均質化していくようにみえたとき、O JUNが語った少年の両義性や排せつ物の平等性とともに、この作品のタイトルが別の意味を帯びてくる。衝動的な線の乱立は、直線的に並べられた絵画展示との比較において、描くことと、絵画であることの隔たりと近さを示した。そしてこれらの対比は描く行為の原初的な熱と描かれた虚構の世界がみせる新鮮な驚きを等価に表しているようでもあった。

 


 

[1] 2016年4月13日本展オープニング時のアーティスト・トークにおけるO JUNへの公開インタビュー(於ACAC)。

[2] O JUN「この糞世界」2016年(本カタログp.04~05)。

1

2

3

《横顔》
紙に色鉛筆、クレヨン、ガラス、鉄
75×75×5cm,2016年

4

《犬》
紙に色鉛筆、クレヨン、ガラス、鉄
75×75×5cm,2016年

•Ž†170110_1

《カタルコ》
紙、顔料、ガッシュ、ガラス、鉄
171×119×5cm,2007年

6

《糞世界》
壁面に手製合金ペン、2016年

7