マテリアルとメカニズム

2014年10月25日(土)~12月14日(日)

リャオ・チエカイ

LIAO Jiekai

リャオ・チエカイ《海のものと山のもの》
撮影:山本糾

触覚的な光

近藤由紀

リャオ・チエカイは、人々の記憶や土地の隠れた歴史を掘り起こし、見ていることと記憶していることの関係性を詩的に喚起させるような作品を映画や映像インスタレーションで制作している。しばしば作品には16㎜フィルムが使用され、特有の質感を映像の中で効果的に用いるほか、フィルムの物質性や機構に着目して作品を制作している。今回滞在制作された作品《海のものと山のもの》は、小説から引用されたというそのタイトルが示す通り(1)、この土地の地形的特徴を手掛かりに制作された映像作品である。一方でそれは本プログラムタイトルでもあった「マテリアルとメカニズム」に呼応した作品として、16㎜フィルムの物質性とその映写機の機構が隠喩的に用いられたインスタレーション作品となっている。

制作に際し、リャオは一定期間ほぼ毎日青森市内に出かけ、晩秋の日々変化してゆく日没の時間、いわゆる「マジックアワー」の数分間を撮影した。撮影場所は、地図上であたりを付けた場所をgoogleストリートビューで確認し、視覚的に興味深いと思われた場所や土地の性格を反映しているような場所が選ばれた。その際、青森市の市街地図をいくつかのゾーンに分割し、そのゾーンにしたがって、最終日には展覧会場であるACACで終わるように、海から始まり山へ向かうように毎日移動しながら撮影が行われた。

撮影の時間帯や長さ、場所の選択など作家が定めたルールに従って撮影されているが、その映像は作家が滞在中に目にした美しい日没の印象、初めて青森に降り立った時に山の上にある空港から眺めた海へと連なる街の風景、晩夏から秋、そして冬へと刻一刻と変化する四季の光など、作家の体験的な印象や感覚が強く反映され、情感豊かな映像となっている。会場に設置された小さなモニターにはリャオが撮影した場所の地図が、彼の歩行を示すようにアニメーション映像で示され、作家の身体的な体験をそこに加えている。

一方で映像では、単に視覚的に興味深いというだけではなく、現在的な時間の横軸と歴史的な時間の縦軸の両方が意識され、蓄積された時間とともにある土地の姿が捉えられている。過去に属する遺跡や墓地、山並みを背後にした同時代的な建造物、川の流れや作られた小道といった、時代を超えて変化した風景と変わらぬ風景が、昼と夜の狭間の曖昧な時間の中で折り重ねられている。「海のものと山のもの」が一緒になった景色は、そもそもこの土地の精神性と深くかかわっていたのだろう。祭事場であったとされる縄文時代の環状列石遺跡が、背後にそびえる八甲田の山並みと陸奥湾の両方を一望できるところに残っているのは、その景色が古代人にとって特別な風景であったことを示している。だがその同じ地形の下では、時代を超えた人々の生活が息づき、様々な痕跡を残していった。そうした風景が、ささやかな積み重ねこそがその風景の歴史を隠し持っているとでもいうかのように、ありふれた事物や何気ない人々の日常のうちにおさめられている。これらはリャオが持っていた1000フィート分のフィルムに撮影され、約28分の映像となった。

一方で映像が印象的、感覚的に感じられるのは、その映像が抒情的だからではない。この映像は白黒フィルムで撮影されており、日没後の光がみせる特有の色彩の美しさは映し出されていない。つまりマジックアワーの撮影がとらえたのは、その時間帯がみせるいわゆるドラマティックな「美しい光景」ではなく、曖昧で微妙な光そのものということもできる。それは映像の中にしばしば川や池といった水の風景が撮影されていることからもうかがえる。山と海をつなぐものとして水に対して関心をもって撮影したと作家は語るが、一方でそれは光を捉えようとした印象派がしばしばそのために水を描いていたのと同じように、作家を取り巻く光それ自体に焦点があてられている。それはインスタレーションとの関係によってより明らかになっている。

撮影された映像はギャラリー内部におかれた映写機から野外に設置されたスクリーンに向けて投影された。したがって、日中の強い日差しの中では、映写機から投影される映像をスクリーンの上に見ることはできない。その代わりに、鑑賞者は会場内に張り巡らされた1000フィートのフィルムの質量を目にする。それらは光の中に現れた28分間の映像の物量であり、ここでは映像よりも像を焼き付けているフィルムそのものの物質性が際立っている。連続する画像が連なる長いフィルムと、映写機から映ぜられながらも見ることのできない映像は、1秒間に24コマ連続して写し出される画像が錯覚によって映像に見えるという動画の仕組みや上映の光学装置として仕組みをあらわにする。

しかし暗くなるにつれて、それら物質としてのフィルムが闇の中に存在を沈め始めると、物理的には存在しない映像が逆にその存在感を強めていく。闇によって存在感を強めた映像は、水に、ガラスに、壁に複雑に反射し、あちらこちらに投影された映像は虚実を何層にも重ねる。図らずもスクリーンの上に映り込んでしまった窓枠は、虚像に実像を重ねるばかりではなく、絵画におけるフレームのようにスクリーンの上の映像を開けた窓からみえる像のようにみせることで、現実とイリュージョンの関係を想起させる。セルロイドのフィルム特有の粒子の荒いテクスチャーと日没後の曖昧な光をたたえる映像は、撮影場所が山に向かうにつれて自然が生み出す抽象的なフォルムと日没の進行による画面の暗化によってますますあやふやで幻想的な風景を映し出していく。

光によって表情を変える光を捉えたフィルムによるインスタレーションは、映像のメカニズムに言及するとともに、その物質性を示している。身体とのつながりを切り離された視覚的イリュージョンは、いくつかの手だてによって触知的感覚が加えられることで、その絶対的な場所から私たちのもとへ降りてくる。それはイメージの有限性を示すばかりではなく、あらゆるものの儚さと非永遠性を喚起する。

(1)黒柳徹子『窓際のとっとちゃん』講談社、1981年より引用。