マテリアルとメカニズム

2014年10月25日(土)~12月14日(日)

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長坂有希

NAGASAKA Aki

長坂有希《手で掴み、形作ったものは、その途中で崩れ始めた。最期に痕跡は残るのだろうか。》プロジェクト、2014年
撮影:山本糾

無意識の感応が繋ぐ景色の物語

近藤由紀

長坂有希の作品は、作家の個人的な体験――人やモノ、出来事との出会い――をきっかけに得た着想から始まり、そこから派生する様々な事物の文化的・歴史的な背景を探ることで作品を深化させていく。そうして現実や体験、想起された事柄や想像を織り交ぜながら、現実と空想が交錯する一つの物語世界を作り上げていく。この作品世界はテキストのみならず、オブジェや映像、音や写真といった様々なメディアによって表現され、それは作家が創作した物語を一方的に語るばかりではなく、作品を体験する鑑賞者がそれぞれの内に独自の物語を作り上げることができる「舞台装置」としても機能している。

今回制作された作品は《手で掴み、形作ったものは、その途中で崩れ始めた。最期に痕跡は残るのだろうか。》と題された大きな物語の中のプロローグ《00_景色》と第1章《01_アンガス》という位置づけになっている。すなわちこの作品は今後何らかの形で章を増やしていくものであり、ここで発表されているのは、構築途中の大きな作品世界の一部であるということになる。

「物語」に中心に置いた作品は、ともに物理的な作品と作家の声による「お話」という二つの要素からできている。《00_景色》では、黄褐色の台座の上に粘土と縄文土器によって乾いた大地を思わせる一つの「風景」が作られた。台座にのったそれは、どこか現実から切り離された閉じられた世界のようにみえる。乾いた土でできたクレーターや突起は廃墟を思わせ、破片を組み合わせて再構成された太古の人々の手の痕跡を強く感じさせる縄文土器は、失われた文明を想起させる。そこに「粘土で作られた人形」(人間)の神話のような物語が、ささやくような親密さをもった語り口によってかぶせられていく。神代の出来事と現代の習慣をつなげ合わせた物語、同じ土地から採取された土を使い、時間軸の隔たった人々(縄文人と作家)によって作られたオブジェが同一平面上におかれた作品は、超空間的な台座の上で超時間的な場を形成することで、この物語世界の中立的な地図として示されていく。

《01_アンガス》は、この粘土の風景の住人の一人として作家が設定した登場人物の一人であるという。それは作家が出会ったスコットランド系の写真家であり、アイルランド神話の神の一人であり、牛の種類であり、土地の名前であり、深海探査装置(Acoustically Navigated Geological Underwater Surveyor)でもある。すなわち「アンガス」は、作家が出会った複数の偶然に必然をもたらした要石であり、一つの象徴でもある。この作品では、作家による「お話」のパフォーマンスが主である。物理的なインスタレーションは、作家が出会った写真家のアンガスに始まり、海底探査装置ANGUSで終わるその話を聞くための「部屋」として作られている。鑑賞者は一枚の写真と、ANGUSという文字で構成されたタイポグラフィが貼られた大きな壁を抜けて、小さな木製のオブジェが中心に置かれた小部屋に入り、作者による「お話」を聞くのだが、ここでは《00_景色》とはうって変わって、ごく日常的な口調で物語が語られる。それはあたかもキャンプファイヤーの火を囲んで仲間が最近体験したり、考えたりしたことを雑談のように語るのを聞いているかのようだ。しかし「お話」に登場する理想の景色を北極に探し求める「エルフのような」アンガスも、人類の知を拡張する数々の偉大な発見をしながらも今は写真としても実体としてもほとんどその姿を残していないANGUSも現実存在でありながら、どこか非現実との境界にいるかのようである。

だからだろうか、まだ見つけていない景色を探すために辺境へと赴く彼らの旅は、現実の旅というよりはむしろ、心の奥底や記憶の彼方にある何かを探す旅のようでさえある。一方でそれらは単なる心象風景を探す旅としてではなく、人々とそのイメージや知を共有するためにそこで見つけたものを持ち帰り、提示することで、現実としてもイメージの比喩としても、人々の世界を拓いていく。単純な機構の装置であるANGUSは、何もないと思っていたところに何かを見つけ、その写真(=イメージ)は、人類の認識を変えた。心の風景を探し求める写真家は、それに適合する風景を探し求めれば求めるほど撮影する機会を失い、様々な条件が重なって手にした一瞬の景色を、誰とどうやって共有すればいいのかと思い悩んでいる。それはそのまま芸術制作における問いかけとも重なる。そう捉えると、ここで語られているのはすべて芸術制作についての問いであるように思えてくる。それは自己言及的な芸術のための芸術論というよりはむしろ、長坂が考える芸術の本質であり、その価値についての物語である。

これらの作品を成立させているのは、長坂による「客観的な」リサーチの積み重ねに拠るのだが、個人的な体験によって偶然出会った事象を自ら選択し、自らの主観によってつながった偶然をさらに掘り下げて、また別の偶然に導かれていくというように、そのリサーチは極めて主観的に行われている。だがそれが個人的/内向的な物語とならないのは、現実あるいは他者の考えに触れる「リサーチ」が、作家の主観的な偶然と事象の結びつきに確信を与えるばかりでなく、他人と共有しうる地平を探り当てようとするための作業でもあるからではないだろうか。主観を重ねた上で構築された景色/物語は、だが単に個人の思いや記憶を連ねた心象風景として表されているのではなく、また無意識下の元型を象徴として浮かび上がらせているのでもない。それは主観を重ねた上で普遍に到達しようと作家の制作態度の表明でもある。

バラバラに存在する事柄が「必然」を持ってつながるように感じられるのは、取り巻く世界に対して無意識が感応し、その人にとっての別の真実を透かして見せるからだろう。しかしそれに気づくには、少しの馴れがいる。「お話」を聞いた鑑賞者は小部屋から出て、もう一度自分が通ってきた壁を振り返った時に、壁のタイポグラフィに別の像を見るかもしれないし、単なる都会の街並みだと思っていた写真の中心にANGUSの姿が映し出されているのに気付くかもしれない。体験が眼差しを変えたなら、見えないものと見えるものの狭間にあるイメージが眼前に現れ、私たちを取り巻く世界も少しだけ変化するのだろう。

《00_景色》

《01_アンガス》

《01_アンガス》お話のパフォーマンス