Storyteller – 識る単位

2012年 11月3日(土・祝)~12月16日(日) 10:00 - 18:00/無料

ユ・チェンタ

YU Cheng-Ta

《歌の練習:日本語の歌》

コミュニケーションの間にあるもの

近藤由紀

ユ・チェンタの映像作品には、独特のおかしみがある。このおかしみは、彼が作品において顕在化させるさまざまなずれによる。このずれは、大きなギャップというよりは、近いもの同士でしか生じない僅かなずれでありながら、それでいて両者を決定的に分けるようなずれである。一方で作品はその「違い」を露わにするが、その違いは断絶として否定的に捉えられているのではなく、むしろおかしみという味付けによって多様なバリエーションを受容する土台が提示されているかのようである。

ユは、ずれやギャップを示すために、しばしば「言葉」を用いる。それはあるメッセージを伝達する手段としての言葉であり、作品の中では発話や歌、説明、あるいはボディランゲージといった形で現れる。ユの作品において、これらはしばしば間違いやミスリーディングといった多くの「ミス」を伴い、コミュニケーション・ツールとしては不完全な状態で示される。とはいえ、そもそも言葉とは曖昧なもので、例えば同じ母国語を使用する者同士が会話をしたとしても、全てのメッセージが間違いなく相手に伝わるとは限らない。一方でたとえ片言の言語で会話をしたとしても、伝わるメッセージもある。メッセージ外のメッセージや沈黙、所作などもそのメッセージの理解/不理解を左右する。ユは作品で「言葉」を多用するが、一方で言葉そのものに着目しているというよりは、こうした言葉を発する場面やコミュニケーションの際に生じるギャップをユーモラスに顕在化させることで自分と他者との間にある距離や関係性を再考させようとする。

今回滞在制作された作品《歌の練習:日本語の歌》は、タイトル通りユが日本の歌を練習し、そのミュージックビデオ(カラオケ風)を作るという作品である。ユによると、台湾は日本大衆文化の影響が強く、ユの小さい頃は日本の歌謡曲の台湾語バージョンが溢れていたという。しかし、日本の曲が中国語にカバーされるまでに著作権の関係で数年の遅れがあることや、好まれる曲の違いにより、ユが知っている「有名な日本の歌」は、必ずしも我々がよく知っている歌ではなかった。そこでユは周囲の人々にアンケートをとり、台湾で有名な「日本の歌」の中から本当に日本で有名な曲を五曲選んだ。ここでまず一つ目のギャップが現れる。それは距離的にも近く、大衆文化という媒介によって繋がったようにみえた台湾と日本の時差や嗜好の差によって生じた小さな違いである。それは文化的、言語的、地理的な近さと遠さの両方を想起させる。

次に日本語が全く読めないユは、歌の練習のために日本語をローマ字変換した歌詞カードを作った。しかしローマ字で書かれた外国語の歌詞を追うのは至難の業であったため、ユはそれを中国語の音表記に変換した(fig.1)。それはちょうど英語の歌をカタカナで表記し、それを読んで歌うようなものである(I love you=アイラブユーのように)。当然のことながら、それは元の発音を正確に再現できるものではない。ユは練習を重ね、真剣に歌ったが、出来上がったミュージックビデオには、そこここに言い間違いや音変換のずれが生じる。カラオケビデオ同様、ユの歌っている画面の下には日本語の歌詞が流れるのだが、それは元の歌詞ではなく、ユの歌を聞き取った日本人が書きとった歌詞であるため、部分的には意味不明な言葉の羅列になっている(fig.2)。知っている歌なので、聞いているだけであれば、言い間違いはただの不明瞭な発話として認識され、前後の文脈やあらかじめ知っている歌詞から正しい文章を推測することができる。しかしそれは文字化されることで、意味不明な歌詞として記録され、それを読んでも意味を理解することができない。ここに母国語の違いによる発音のずれや、それによる意味伝達のずれという二つ目のずれが現れる。

ユは、いかにもカラオケビデオ風の映像を作るために、青森の観光名所の前で(しばしばカラオケビデオには、脈絡もなく観光地がロケ地として使用されている)、いかにもカラオケを歌っている人らしいジェスチャーで歌っており、この発音ミスや言い間違い、あるいはカラオケビデオ風によくできた嘘っぽい画面が観客の笑いを誘う映像となった。

ところで《日本語の練習》をみた観客から起こった笑いは、日本語を解さない鑑賞者にも起こるのだろうか。たとえ日本語を解していなくても、映像の造りや演歌歌手風のアクションをするユの歌い方や堂に入った歌声には、くすりとさせられるだろう。しかしユの微妙の言い間違いがおかしいのは、それが別の状況を想起させ、異なるメッセージを受け取ってしまう可能性をもっているからである。とすれば、作品を解するにはある程度の日本語の知識が必要であろう。

ユはこの言語的、文化的な僅かな差異を扱うために作品が発表される場所に合わせた「サイトスペシフィック」な映像作品を制作するという[1] 。作品がコミュニケーションにおける僅かなずれを扱っているからこそ、時に鑑賞者の「国際的」かつ「普遍的」な反応を得ることはできないかもしれない。しかしユはそうしてしかあらわすことのできないずれを意図的に選択しているがゆえに、その作品を「サイトスペシフィック」な映像作品というのである。その一方でユは、こうしたコミュニケーションのギャップやずれを、言語的、発音的な言い間違いだけではなく、ビデオあるいは映像の構造としても示そうとする。

ユは作品においてしばしば、カメラの向こう側とこちら側、「映像」における発信者と受信者との関係を扱っている。ユの多くの作品は、ユが直接的、間接的に登場し、本人または誰かが、映像をみているであろう鑑賞者に向かって何かを発する構図をもっている。そしてしばしばそこにはメッセージを発する側の裏側や過程のようなものも同時に示されている。例えば《観光案内の練習:オークランド》(fig.3)では、ユは現地のレポーターに扮し、ニュージーランドの観光名所について、モニターの前にいると考えられる「視聴者」に向かい、高いテンションで説明している。だがその内容は実際にはユが知っていることを伝えているのではなく、地元の人が作った原稿を、ただ読んでいるだけである。そして当然のことながら、誰かに向って話しをしているのではなく、単にカメラに向かって文章を読んでいるだけである。そして映像ではその種明かしも示されている。そこでは内容をコントロールしている人、文章を作った人、それを演ずるだけの人が別々であるということが何の疑いもなく受け入れられている映像メディアと視聴者の構図を用いながら、主体が曖昧なメッセージの発信者と受信者の漠然とした関係を浮かび上がらせている。ユの作品では、映像で示されるコミュニケーションのずれと、作品の構造によって表面化させようとするメディアに特有のずれが内在しており、それがおかしみと同時に、ユが意図するにせよしないにせよ、時に批判的かつ政治的な色を作品に添える。

こうした構造は、《歌の練習》でもみられる。モニター画面は二分割されており、左側にはラジカセをもって、ジェスチャーを交えながら歌っているユが映し出されており、右側にはユの前で歌詞カードをかざすアシスタントが映し出されている(fig.4)。すなわちここでも通常表に出ている結果としての画面と、その「完成品」を作るための舞台裏が同時に示されているのである。また会場にはこれらのビデオ作品のほか、最初のきっかけとなった日本の歌の中国語バージョンの歌、使われなかったローマ字で音表記した歌詞カード、ユが実際に使用した歌詞カード、中国語の音表記にするための変換表など、「完成作品」に至るまでのあらゆるプロセスを示すものが同時に展示された(fig.5)。それは言語的、文化的な変換と翻訳の過程をあらわすものでもあろう。

とはいえその「完成品」も間違いが多く、不完全さをそのままにしている。そのことは二つの言語あるいは二つの文化の間にある歴然たる壁やギャップのようなものを強調する。右の映像ではユが作成した中国語表記に変換された歌詞が流れ、左では上述したようにユの言い間違いや発音の違いをそのまま書きとった歌詞が流れている。つまり結局はどちらの側からも本当の意味では、その歌のメッセージ(意味内容)を受け取ることは難しい。ここでは台湾語を解する者にとっても、日本語を解する者にとっても、またその両方を解する者にとっても、おそらく共通の認識としてもっていたはずの日本語の歌が、ユ・チェンタを介することにより、メッセージの伝達という意味においては何も伝達し得ない言葉あるいは音声の羅列として変換されている。

だが、一方で我々はその歌を前後の文脈によって、自分の知識によって、あるいはユの歌いっぷりによって、正しいにせよ間違っているにせよ、推測し、楽しむことができる。ユはこの両者を示すことで言葉の壁の存在を明確にしつつも、それを乗り越える可能性を示唆する。翻訳の場合に限らず、我々のコミュニケーションは常に断絶や齟齬に満ちており、完璧な意思疎通はないかもしれないが、しかし伝達は行われる。ユの作品では言葉やコミュニケーションのギャップが示されるが、そこでは一方で間違いや齟齬はユーモアをもって許容され、開かれた「言葉」はさらなるコミュニケーションを発展させる潜在性を獲得する。それはコミュニケーションの齟齬を否定的に捉えるのではなく、多くのエラーを含むコミュニケーションを受け入れ、肯定する姿であるように思われた。

[1]  ユ・チェンタレクチャー「ランゲージ・シフター」(2012年11月25日)での発言より。

©YU Cheng-Ta

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