Passage: A Day in Eternity

10:00am-6:00pm, July 25 - September 13, 2015/ admission free

Sandra CINTO

サンドラ・シント

"A Landscape of a Life Time"
Permanent pen and paint on the wall, chairs and sound piece created with the collaboration of Paula NISHIJIMA
photo: YAMAMOTO Tadasu

passage 永遠の一日

2015年7月25日(土)~9月13日(日)10:00-18:00/会期中無休・入場無料

サンドラ・シント

Sandra CINTO

《生きている時間の風景》
壁面にペンキ、油性ペン、椅子、音(ポーラ・ニシジマとの共作)
600×1865cm
撮影:山本糾

凍った時間、無限の風景

近藤由紀

サンドラ・シントは繊細で複雑なドローイングにより星や雪の結晶といった自然物を象徴的に描いていく。これらのドローイングは、しばしば展示される場所の空間を生かしたインスタレーションとして制作され、見るものを包み込み、沈思へ導く静謐な空間を創り出す。

滞在制作作品《生きている時間の風景》は、今回のプログラムテーマである「passage 永遠の一日」に対し、直接的に反応した作品であるといえる。ここでシントは永遠を「人の一生」に読み替え、映画のスクリーンのように区切った壁面に、異なる時間の層を全体として表すことを試みている。

この作品では人生の段階あるいは時間の経過を表す三という数字が全体を統べる構造として繰り返し用いられている。大きく湾曲したギャラリー空間の中央に対称的に配した青を基調に塗り分けられた三色は、異なる時間の層を表している。階調の変化を朝・昼・夜と同時に誕生・生・死に対応させることで、一日と一生が重ね合わせられ、時間の全体=永遠を示唆している。これは壁面前におかれた三台の椅子――幼年期を象徴する木馬、青年期を象徴するシンプルな椅子、そして老年期を象徴するロッキングチェア――によっても繰り返されている。

椅子に置かれたヘッドフォンからは、私たちの日常に溢れている音――足音、子供の息遣い、波の音など――が入り混じりながら聞こえ、人生の様々な時を喚起させる。それらはしばしば人生の比喩として用いられる列車の過ぎ行く音と重ねられることで、その経過、移行を意識させ、その刹那を強く感じさせる。椅子に緩やかに座り、スクリーン構造の画面を眺め、人生の時間を喚起させる音に身をゆだねることそれ自体が、人生の最後に走馬灯のように流れる自分の人生を振り返る人の空想上の舞台装置のようにもみえてくる。時間や人生を表す象徴が畳みかけるように繰り返し現れる作品構造により、鑑賞者は過去から未来へと続く時間の旅へと誘われていく。

安定した構造の内にはシント作品に繰り返し現れる自然物をモチーフにした図像が銀色のマーカーで描かれているのだが、それらは定型的でありながら、自由でのびやかな広がりをみせている。白に近い中央のペイルブルーの帯から漏れ出るように打たれた無数の銀色の点は、点描の細い帯となって外側に広がり、両端の濃紺の帯の中で雪や雨、山や川を思わせる線描や麻の葉文様を思わせる幾何学的な図形となって広がっていく。その有機的な展開は、源からにじみ出た光のエネルギーが時とともに生育して行くようにもみえる。自然物は再現的というよりは抽象化され、文様化されて描かれているが、反復される図像は、装飾的に用いられているというよりはむしろ、あらゆる地域の人々が身の回りの形を長い年月をかけて洗練させ造形していった伝統的文様を参照しており、形のみならずその背後の歴史や営みに目が向けられている。目を戻すと最初の光のように見える淡い青で塗られた中央部にもまた麻の葉文様が見える。最初のように見える場所と最後のように見える場所の両端に認められる麻の葉の形は、光の中で生まれた形が長い時を経て、濃紺の闇で開花しているようにもみえるし、濃紺の闇で花開いた数々の形が最後消滅するときに残った最後の形のようにも見える。つまり色帯は可逆的であり、時間の流れは円環的につながっていく。流麗な川や山、降り注ぐ雨、雪、星の光――こうしたきらめくような図像は、一方で左右対称の単純な構図や反復される数的な象徴の内に閉じ込められることで、凍り付いた時間のうちに超時間的な風景として立ち現れてくる。

広大な風景と対峙したときの世俗的な体験を神聖な体験として解釈したロマン派の画家たちの超時間的な自然の風景は、超越的な神秘としてそこに表された。一方シントの風景は、超時間的、超個人的でありながら、見る者の内面へと結びつこうとする。線描で描かれたモチーフは、細かい無数の線や筆致、線と図像の有機的な形とその微かな震えにより、リズムや運動性を感じさせる。そのため鑑賞者は描かれた波やきらめく星に自らの物語を重ね言語的に解釈するばかりではなく、その線の揺らぎや動きに自らの身体的なリズムを同化させることで、身体的・非言語的にシントの描いた風景に没入していく。リズミカルで個人的なそれは、だが次第に麻の葉文やシントのドローイングでおなじみの扇形の文様、雪の結晶や星の形に集約されていく。一人の人間のミニマルな身体性を感じさせる無数の線が集積されることで我々が共有しうる抽象化され、定型的に表された形に結実していく様は、個々人の体験や時間が集積され、伝統や文化を生み出していく人類の時間やその歴史の反映と重ねられていく。

我々は古来より我々自身の気分や自然観を反映させ、内的に再構築し、別の意味を重ねながら風景を眺めてきた。そこではあらゆるものが別の意味を持ち、象徴的に切り取られ我々に語りかけてくる。描かれた風景がそれぞれの時代の自然観を反映するとするならば、シントの描く風景は、利便性を追求し、あらゆるものを手早く獲得し、そして忘れていく現代社会に対し、永続的な時間性と静寂によって対抗するポリティカルな風景となる。

抽象化されたモチーフや象徴的表現を描く一方で、シントの作品における大画面や空間性は、自然を前にしたときのもう一つの体験、解釈や象徴といった自然の人間化を超えた先に感応する圧倒されるような体験を再現している。それは我々の生において無限性や孤独と対峙することへの声明のようにも感じられる。