言語と空間vol.2 蓮沼執太「作曲的|compositions: space, time and architecture」

2015年5月30日(土)~6月28日(日) 10:00-18:00/会期中無休・入場無料

蓮沼執太

Shuta Hasunuma

音楽の庭─フィールドレコーディングの思想に基づく空間の作曲

服部浩之

 本展タイトル「作曲的|compositions: space, time and architecture」が示すとおり、蓮沼執太は「空間、時間、建築」相互の関係をコンポジション(作曲)し、音楽空間を築いた。蓮沼は14のピースを湾曲する回廊状のギャラリー空間と屋外にインストールした。形態やメディアは多様で、音を出す装置的なオブジェ、フィールドレコーディングによる音声、映像、スピーカーなど音響機器の特性を活用した音響現象などだ。空間そのものがスコア(楽譜)であり、音のオブジェが点在する「音楽の庭」と捉えられる。庭は「コンポジション」を究極化したもので、まさに本展は音による作庭といえる。庭園において人の動線は強く意識されるが、この音楽の庭も例外ではなく、各所で響く音の要素は観客が移動することで接続されミックスされ曲が展開していく。観客各々が彼/彼女の移動に応じて楽曲を構成していくのだ。

 展示室に入ると小枝に接木されたシンセサイザーから電子音のドローンが響きわたる[i]。脇に目をやると、壁面に向けられた小型スピーカーからは何やら会話がきこえてくる。しかしこの会話はうまく聞き取れず、さらに先へ進むと低木の林のような場を取り囲むように配置された4台の大型スピーカーから一定間隔でゴオッと唸る低音が出力されている[ii]。この小さな林に近づくとその上にはピアノ線による繊細なヤジロベーが載せられていることに気付く。ヤジロベーは、スピーカーから出力される低音により静かに揺れ動く。音の伝播が視覚化されているのだ。低音の響きを背後にすると左手には、不定形にくり抜かれた一枚の木版がかけられたモニターが目に入る。映像には、黄色のペンキを垂らしながら森を歩く蓮沼の姿があり、草木をかき分ける音や息遣いが淡々と響く。これはACACの森を蓮沼がペンキでマーキングしならが歩き、大地に楽譜を描く《ウォーキング・スコア》だ。遊歩のためのコースをつくり描きだすことも、蓮沼にとって周辺環境を聴くための作曲行為なのだ。これはギャラリーの音響空間から一旦観客を解き放ち、別の楽章へと導く転換点となる。

 再び音響空間に戻ると、絵画のような5枚の図形譜が重ねられた《5つの楽譜の層》がある。フィールドレコーディングした音源を素材としてシルクスクリーンで定着したスコアだ。そして空間の中心には、象徴的な《フィードバック》が鎮座する。真鍮製の巨大なメガホン型オブジェは、その内部にマイクが仕込まれており、周囲の音を取り込み、さらにエフェクターを介して増幅と変調を加え、背後のスピーカーからフィードバック音を発する。蓮沼が設置した作品によるドローンや低音から、観客の足音に話し声、そしてこの《フィードバック》から出力される音も再び取り込まれ変質され新たな音が繰り返し放出される。周囲の環境に反応しつつも、大胆に音質を歪める本作は、この音響空間の核となっている。

 《フィードバック》の先には、砂利が不定形に敷かれた浮島が現れる。この浮島にも小さなスピーカーが設置されており、リズミカルに音を発し、時折スピーカー上の砂を揺さぶる。また、その脇ではビーズを入れられた試験管がゆるやかに回転し、回転に応じて規則正しく流砂のような音を発し全体にリズムを与え、音環境の基底的な役割を成す[iii]。その奥の3つの映像による《ブーメラン》を抜けた先には、何もない壁に向けて照明が照らされている。その照明のそばにいくと、話し声がきこえてくる。不協和音のように差し込まれるこの会話は、入り口付近で壁に向けて音を発していたスピーカーから出力されたものだ。入り口側壁面にむけて音を出すと、50メートル以上先の壁面まで音が増幅されて伝わり、非常にクリアに聞こえるのだ。この《反射/響》は、湾曲した空間が音を遠方へ飛ばす空間特性を体験できるかたちに変換したものだ。

 さらに奥の小部屋へ入ると、廃棄されたドラムを解体しリミックス感覚で再構築したインスタレーションが音を発することなく静かに佇む。庭園の東屋のような場でドラムの風景を眺めつつ遠くの音に耳を傾け小休止をしたのち、ギャラリーを引き返し逆再生のごとく音の庭を歩いて入り口まで戻る。

 そして通路を挟んだ向かいのギャラリーBに入ると、宙に浮いた3面スクリーンからピアノやドラム、スチールパンによる演奏や、自然や都市風景など様々な音を孕んだイメージが展開される[iv]。この展示室を出て水のテラスへ向かうと、つい先ほどギャラリーの窓越しに見えた細い金属管による噴水の音が響き渡る[v]。屋外でもひとつの音楽空間の体験が持続されているのだ。

 蓮沼のコンポジションは、フィールドレコーディングの経験に強く依拠している。いわゆる環境音を採取して挿入するだけでなく、例えば《フィードバック》は自動フィールドレコーディング装置のようなもので、周囲にひろがる音を取り込み、それを瞬時に変換し吐き出していく。空間の配置構成は非常に緻密にコンポジションされているが、インストールされた14の作品の発する音の関係は厳密にプログラミングされ管理されるのではなく、それぞれ独自の機構で淡々と運動することで予期せぬ瞬間に予期せぬ音に出会う偶然やハプニングを積極的に取り込むものだ。そもそもフィールドレコーディングは偶然の出会いの連続であり、当然ジョン・ケージが見出したチャンス・オペレーションも重要な方法論として取り込まれているのだ。蓮沼は完全制御による隙のない音楽より、そのときその場所で起こるライブ性や身体経験の一回性を重視した作曲態度をとる。

 一方で、蓮沼はアートやその歴史に対する距離感も鮮明だ。美術史を実践的に参照するが、あくまで音楽家による作曲という態度を崩さない。例えばフィールドレコーディングによる風景と楽器演奏など脈絡なさそうなカットを織り交ぜる映像の扱いはセルゲイ・エイゼンシュタインによるモンタージュを想起させ、さらに思いもよらない要素を空間的につなぎ合わせる構成はウィリアム・バロウズのカットアップを思わせる。蓮沼は幅広く多様な影響圏をポジティブに受け入れ、独自のリミックスを施しひとつの音楽へと昇華する。展覧会という美術の方法論と制度のなかで音楽家として作曲を試みるのは興味深い態度だ。

 ところで、環境を最大限に取り込むことで成立する、あるいは環境に依存する現象や経験に依拠した作品をいかに保存し後世に伝えていくかは、この作品を前にすると目を背けられない問題だ。音楽空間としての作品はどのように残し伝えることが可能だろうか。これは我々美術制度の内部にいる人間だけでなく、蓮沼のように美術家とは異なった態度で美術に関わる芸術家たちとともに考えていくべき課題であると、改めて実感する展覧会であった。


[i] 《環境的#1》、2015年

[ii] 《環境的#2》、2015年

[iii] 《音の回転》、2012年

[iv] 《音楽からとんでみる3》、2011年

[v] 《ウォーターミュージック》、2015年