【反応連鎖platform1】Nadegata Instant Party 「24 OUR TELEVISION」

2010年6月26日(土)-27日(日)[24時間ライブ放送]、7月3日(土)-7月19日(月・祝)[ドキュメント展]

LIVE

あらかじめ記憶された物語たちへ ̶ ライブ/ドキュメント/アーカイヴの本末転倒

小森真樹

「24 OUR TELEVISION、なんでもないたった一日の24時間が、あなたにとっての素敵な24時間でありますように!」
―ナデガタ・インスタント・パーティによる24 OUR TELEVISIONの放映が終わる瞬間の鮮烈な映像が目に焼き付いて離れない。夜通しの睡眠不足と疲労を体に感じながら視界がぼんやりとしていたのは覚えているけど、その瞬間はもしかするとホンモノの24時間テレビ以上に興奮と感動のラストシーンだったのかもしれない。平気で番組が差し替えられたりスタッフがその場で交替したり、破綻がどこかしこに見つかるこの番組のクオリティは恐ろしく低かった。カメラワーク、テロップ、スイッチングなどアウトプットの最終段階でなんとかうまく整えられていたインターネット上のUSTREAM配信に比べると、当日の収録現場はカオスそのものだった。しかし、「 視 聴 者 」がTVに求める本質がエンターテイメント性だとすれば、この収録は間 違いなく「成功」だった。自分たちとスタッフを極限状態に追い込むことで生み出される(?)あの一体感、連帯感、そして恍惚感に満ち溢れた彼らの表 情は、巧妙に作り出された「曇りなきホンモノ」だった。その場にいたほとんどはこの空気に飲み込まれていた―そう、彼らが他人を巻き込む仕掛けを 巧妙に作っていると知る人々も、一方で飲まれていたことは否定できないだろう。

しかし、現場が「成功」したかどうかというのは、彼らの作品が「成功」かどうかということともたぶん違う。中崎さんは以前、「『現場の失敗』と『作品の失敗』は別次元」と口にしていた。とすれば、彼らにとって「現場の成功」という点と「作品の成功」という点もまた別の次元である。否、「点」というよりは「角度」というのが正しいのかもしれない。見る角度、切り取る角度によって、全く異なる現象として立ち現れる多面性が、ナデガ タの作品を成立させる条件のひとつだからだ。しかし、パイプの足場で組まれた「客席」に突っ立って、俯瞰した距離感を保ちつつもラストシーンに没入しはじめていた僕は、「現場の成功」だけでも「作品の成功」だけでも、「ナデガタの成功」とは言えないような気分に浸っていた。あれ? 僕は「お客さん」として見に来てたんだっけ? それとも彼らに呼ばれてトークショーに出演しにきたんだっけ?

収録後、展覧会で示されたセットや映像は、「痕跡」「記憶」と呼べるものなのだろうか。通常それらは、現実をドキュメントしアーカイヴ化したときに成立する、いわば「過去」でしかありえないものである。ドキュメントとは本来ライブのために在る。しかしあのとき僕たちは、展示されたドキュメントのためにライブをしていたのではないか。ライブされたあの恍惚感とは、このドキュメントのために生み出されたものではなかったか? となると展示された記憶とは、未来のためにあらかじめ記憶されていたことになる。ライブがいかに物語られ記憶されてゆくのかが、リアルタイム(=ライブ)に既に分かってしまっていた。
企画、当日の撮影/放映、展覧会を通じた全体の構造の中でライブに幾つもの意味を与え、ドキュメントにも多層の意味を与える。ライブ/ドキュメントの関係が転倒させられる。焦点は、なにが起こるかではなく、どのように起こるかにある。彼らは「生放送」というメディアを用いて意味の多層化を巧妙にしくむ。録画に向かう撮影(すなわち「映画」)と、展示物に向かう撮影、そして現場自体が作品となる撮影および生放送、さらにソーシャルメディアによるインタラクティヴな現場/記録の生成などをすべて同時に行なっている。彼らの作品は、一石を投じて何羽の鳥を落とせるのかというゲームなのだ。

あれから僕は東京へ戻ってしまって、結局、展示物たちを眼にしていない。野田さんから伝え聞いたところでは、撮影当日の「ライブのアーカイヴ」が展示室で公開されていたという。収録時間と同期して流れる映像は USTREAM 配信もされて視聴者がコメントで参加可能だった。すなわち、同時に「アーカイヴのライブ」も行われていた。ライブ/アーカイヴも役割が混乱させられているのだ。番組のトークショーで彼らと話したとき、山城くんは「まだどう展示したらいいか、どうドキュメントするか、何も見えていない」と話していた。しかし「何も決まっていない」こと自体は、既に決められていたと思う。なぜなら、ある次元では、ライブは常にドキュメントに向かっていたのだから。ドキュメント/アーカイヴ/ライブが“本末転倒”する物語は、あらかじめ記憶されていたのだ。

さて、「ライブについて書く」という僕に与えられた役割を少しだけ越えて、最後にひとつの問いを立ててみよう。いま、ここで僕がライブについて書いているテクストは、いま、ここでこれを読んでいるあなたにとって「ドキュメント」なのだろうか? それとも「ライブ」? あらかじめ構造化されるべきこのテクストを、ナデガタと盟友キュレータの服部浩之がいかに本末転倒させてくれるのか、僕はまだ知らない。