航行と軌跡

2015年10月24日(土)~12月13日(日)10:00-18:00/会期中無休・入場無料

木村 充伯

KIMURA Mitsunori

展示風景
撮影:山本糾

目で触れる現実と感覚

近藤由紀

三次元的に造形される作品は、種種相の捉え方の違いはあるが何らかの対象と「似ている」といってよいだろう。類似の位相は様々だ。造形的な類似、構造的な類似、法則的な類似、機能的な類似、感覚的な類似など、有形無形を問わずそれは作品と鑑賞者をつなげる細い糸となる。どこがどのように似ているのかということは、それぞれの作品における重要な文法でありシンタクスであるといえる。木村充伯の作品の多くは、具象的なイメージを扱っている。だが木村が造形する上で「似せよう」としているのは表層性とは別の地点からもたらされている。

現実的な「モノ」と作品の境界に関心をもつと[1]木村は言うが、それは作品における外面的な写実だけを意味しているわけではないようだ。2011年に制作された《フェレロ・ロシェ》は、イタリアのチョコレートメーカー、フェレロ社によって製造されているチョコレート菓子を油絵具によって塑像した作品である。この作品では、「ローストしたヘーゼルナッツをヘーゼルナッツクリームとミルクチョコレートでくるみ、刻んだヘーゼルナッツで包んだ」というチョコレート菓子を油絵具によって実物大で再現している。茶色の小さな塊はチョコレート菓子と見紛うほど正確に再現されているわけではない。ここでは中に詰められたヘーゼルナッツ、クリーム、チョコレート、まぶされている刻んだヘーゼルナッツの全てを油絵具で作り、それを本物と同じように溶かし、丸めて作ることによって、むしろそのチョコレート菓子の製造が再現されている。彫刻家が具体的な対象を彫刻とする場合、それは三次元の対象を別の素材を用いて三次元の対象に置き換えることを意味する。ここでは視覚的、外面的な類似よりも重さや作り、その過程などその形を生み出した背後の要因や内容を再現することが優先されている。

今回制作された《祖先は眠る》においても同様の手法が見られる。油絵具によってテンや猿が塑像された《祖先は眠る》は、ぬいぐるみやキャラクターを思わせるユーモラスな外観にも関わらず、奇妙な肉の生々しさを感じさせる。板の上に置かれたほぼ実物大の塑像の周りには、素材である油絵具の油が滲み出し、力なく横たわる姿は眠っているようにも、死んでいるようにもみえる。

この油絵具による動物たちの彫刻もまた中身が詰まっており、その重さは実際のそれぞれの動物の平均体重と同じくらいであるという。可愛らしい姿かたちをした横たわる動物たちは、一方で重量のある柔らかい量塊が重力に押されて力なく緩んだ肢体を絶妙に表している。重力や水分の放出が作り出した形は作者の観察眼によるばかりではなく、一つの「現実」としてそこに別のリアリティを与えている。にじみ出た油、絵具のどっしりとした量感、油絵具の質感でしっとりと光る毛羽立つ表面は、視覚的というよりはむしろ触覚的に感受され、本能的な暗い感覚を刺激する。

同じように油絵具で塑像された鳥の群像彫刻《鳥籠》は、作家が低木の森に棲む鳥を彫刻として飛ばそうと試みた作品である[2]という。何かで吊るしたり、支えたりする以外には、鳥の彫刻は物理的に飛翔しているようには作ることはできない。だから作家はこれらの鳥を竹棒の間に羽ばたいているような形にして挟み込んだのだ。だが鳥たちは竹棒に阻まれているようで、自由に飛んでいるようにはみえない。さらに油絵具で塑像されたそれらの鳥たちは、最初の位置から落ちかけて変形したり、完全に滑り落ちて地面に落下したりと無残な姿を晒している。飛んでいるように作られた鳥は、現実の物理的な制約によって歪められることで不安定で曖昧な生命感を印象付けている。

ところで油がしみ出した生と死のどっちつかずの状態にあるような動物たちは背を向けているか、あらぬ方向を見ているか、目を瞑っている。木村はそうすることで意図的に作品から鑑賞者に向けての眼差しを封じ、鑑賞者に一方的な眼差しを対象に注ぐことを促している。これらの動物たちから時にわずかな生よりもむしろ死の匂いを強く感じるのは、その眼差しの交叉が遮断されているからだろうか。意図的に隠された視線は、むしろ見る側の視線を意識させ、その視線は暴力性を帯びて鑑賞者に戻ってくることで、生命の否定的な姿を想起させるのかもしれない。

これに対し、連作《熊と人、そして猿…》の対象はまっすぐにこちらに目を向けている。 ここで作られている様々な動物は特に抽象化されているわけでも、写実的に作られているわけでもなく、ただそれと推測できるほどには対象の動物と「似ている」ように作られている。この作品は作家が「毛が生えるパネル」と呼ぶ、表面を削ると木目のささくれが際立つように設計されたパネルによって造形されている。ユーモラスな表情と人間のように座したポーズを取った動物や人の図像において重視されているのは、作られた対象が図像的に本物と似ているということではなく、「毛が生える」という「毛」の構造的な類似である。このパネル制作の着想について尋ねたとき、木村から帰ってきた言葉が印象的だった。「毛は後からつけるものじゃなくて、生えるものだから」。浮彫とは逆にパネルの表面を削ることによって対象の表面を作り出すこの作品は、内容物の充満という現実の対象との物理的条件を「似せた」油絵具彫刻とは逆に、内容の充満を捨て、表面的な状態を「似せた」木彫作品である。毛皮といった表面の「発毛」という状態を木彫として再現しようとしたこの作品は、その意味において油絵具彫刻とネガ・ポジの関係にあるともいえる。こちらをまっすぐに見据えているからであろうか、あるいはその毛が生えるということが生体活動を思わせるからであろうか、彼らは真っ白なパネル面から浮き上がり、こちら側の世界に近い存在として現れてくる。

木村の作品ではある部分に現実の法則が観念的な厳密さをもって作品に取り入れられており、抽象化され、限定されたそれが、結果として作品に曖昧な生命感を与えている。そして作品に注がれる鑑賞者の眼差しがその境界を変化させる。メメントモリ的に生命の儚さを主題としている作品ではないが、ユーモラスな外見は、時にそれゆえにどこか不穏な生を逆説的に感じさせる。



[1] 展覧会オープニングアーティスト・トークでの発言(2015年10月24日)。

[2] 木村が展覧会鑑賞者用の解説として提出した文章より。

s_ACAC譛ィ譚・11

《祖先は眠る(2匹のサル)》
板に油絵具、18×182×182cm, 2015年

s_ACAC譛ィ譚・8

《祖先は眠る(テン)》
板に油絵具、11×182×91cm, 2015年

s_ACAC譛ィ譚・16

《鳥籠》
油絵具、竹、コンクリート、155×354×14cm, 2015年

s_ACAC譛ィ譚・22

《熊と人、そして猿・・・》
毛が生えるパネル(角材)に油彩(計9点)

s_ACAC譛ィ譚・23

s_ACAC譛ィ譚・25

s_ACAC譛ィ譚・24

s_ACAC譛ィ譚・5

s_ACAC譛ィ譚・7