〇動

2018年10月27日(土)-12月9日(日)10:00- 18:00、会期中無休、無料

クィン・ヴァントゥ

Quynh VANTU

≪ようこそ|桂を夢見て≫ Welcome | Dreaming of Katsura

(居)場所になる空間

村上 綾

クィン・ヴァントゥは「建築家/アーティスト」であると自己紹介する。彼女は建築の手法によって作品を制作し、そこで生まれる空間と人の動きや関係性に注目し続けてきた。とりわけ、内部と外部、公と私といった境界にある空間、例えば廊下や橋といった通路となる空間と、そこでの人の動きやふるまいに関心を持って制作してきた。

ACACで発表した《ようこそ|桂を夢見て》は日本建築と庭園から発想され、外部と内部の間の空間である縁側に着目し、作品を上から見た全体の形は、階段状の縁側と月見台をもつ桂離宮の書院群の形を参照して作られた。縁側で囲まれた内側へは、門のような部分をくぐって入ることが出来る。訪れた人は木の香りと橙色の暖かい光に包まれ、窓側の月見台の部分に座って景色を眺めたり、縁側の部分に座っておしゃべりをしたり、ぼんやりと時間を過ごしたり、様々にくつろぐことが出来る。

この作品は建築と窓の外の風景まで活用して身体感覚を変化させる。ガラスと鉄で出来た扉を引いてギャラリーBに入ると、天井の高い空間の解放感と共に入り口が目の前に現れる。少し低い門をくぐって中に入ると、下がった目線の先には奥の棚にかけられたつなぎやスーツケース、左の棚には本や明かり、靴といった日用品が目に入る。本を取って縁側部分に座れば、橙色の光の中で落ち着きながら集中を高めることができる。あるいは昼間の右手の窓からの光に誘われて窓に目を移せば、足は窓側に向かい、室内に居ながらにして外の風景を眺めることになるだろう。日差しの弱い日や日没後には来場者の視線は置かれた日用品といった内部空間へ向かう一方、日中は窓の外に視線が誘われる。

ヴァントゥは大小の空間の組み合わせによって、解放感と落ち着きを作りだし、窓を通して変化する自然光も活用して多様な動きを生み出していることが分かる。更に興味深いのは、生み出される落ち着いた空間によって、公的な場所にいるということを忘れてしまう点である。本来ならば、よそよそしい展示空間が、この作品によって居心地のいい場所へと様変わりする。ギャラリーに新たな内と外の空間を生み出しながら、その設えによって、公と私という境界も超える感覚を与えるのである。更に、訪れた人は屋内に居ながら大きな窓から外の景色を眺めることで、意識は外部へも分散し、内部と外部の感覚が曖昧になる。この作品の生み出す空間によって、公/私、内/外といった境界が曖昧になっていくのである。

ただ空間構成だけに注目すると、彼女の「建築」の面だけを見てしまうことになりかねない。そこで生まれる人と人との関係性にも目を向け、本作を通して言及される、私たちが空間をどう作るかという点も考えてみたい。

例えば誰かが展示室内に入ってくると、既にいた人のふるまいは自然と変わる。座っているだけでも気づいたら相手を意識し、相手が内側に入ってくれば会釈など軽い挨拶を交わし、入り口近くの通り道にいれば少し体をずらして空間を空けてあげるかもしれない。挨拶は会釈なのか、笑いかけるのか、声をかけるのか、それぞれの文化的な背景や習慣によって変わってくるとしても、温かい空間が広がるのか、ぎこちない空間が広がるのかは、互いの意識とふるまいに拠ると言えるだろう。つまり空間の在り方は、物理的な要素だけではなく、そこに生まれる人の動きやふるまいによって互いが持つ印象によって左右され、精神的・社会的要素が絡まり合い形成されている。

次に、本作で快適さの演出のために使用された日用品に目を向けてみよう。旅を思わせるスーツケース、器やネックレスといったそれぞれ趣の異なる小物などは、ヴァントゥが国境を越えて移動する生活の中で集めてきた物で、持ち歩けば、その場所をホームだと感じられると言う(*1)。

精神病理学者の木村敏は「居場所について」という文章の中で、日本語の「イル」と「アル」の違いについて語っている。「アル」が抽象的概念も含んだ出現・存在が認識されることを意味するのに対し、「イル」は存在者が動かずに居場所に存在することを意味している。さらに、家を建てるということは、外と内を区切り自分の居場所を決定する能動的行為だと言及している(*2)。つまり、私たちが能動的に存在するためには居場所が必要なのである。

木村に即して考えると、クィンが置いた日用品は彼女が移動した先で繰り返し能動的に行った居場所づくりの証拠であると言えるだろう。ここに、彼女の文化的境界を移動しながらもホームを求めるという、刺激のある様々な場所に赴くと同時に、安らぎを絶えず求めていく姿が浮かび上がる。新たな刺激を求めながら平穏を夢見る様は、多くの人が同時に持っている欲望でもあるのではないだろうか。また、本作品の鑑賞者がふるまいによって能動的に快適さを作ることも、居場所を作る行為と言えるだろう。

ここから敷衍して考えられることは、否応なく何かの状態を求められる居心地の悪い場合でも、小さなふるまいや空間の演出によって能動的に居場所を作ることが出来るということだ。アート/建築、内/外、公/私、移動/定住といった境を超えていく彼女の作品は、私たちが選択する行動によって場を作り、物事の境界の上でさえ居場所を持つ可能性を示している。大きな隔たりがあるように見える物事も、自身が能動的に場所を作ることで、その境界を超えていくことが出来る可能性に気づかせてくれる。

 

(*1)オープニング・アーティスト・トーク(2018年10月27日)での発言。

(*2)木村敏「居場所について」(磯崎新、浅田彰編『Anywhere』NTT出版、1997年、p. 36-45)

 

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撮影:山本 糾