この現実のむこうに―Here and Beyond

10月28日(土)-12月10日(日)10:00-18:00 会期中無休/無料

潘 逸舟

HAN Ishu

右:《揺れる垂直》
2チャンネルビデオインスタレーション、各8分33秒、2017年
左:《揺れる垂直》
ビデオ、10分47秒、2017年
撮影:山本糾

風景と身体のあわい

村上 綾

潘の作品は私たちが考えるのを待ってくれている。今回制作された作品では、飽きずに眺めつづけるうちに思索を重ね、いつしか自身の思い込みに気づかされる。
潘の作品において、風景と身体の組み合わせはよく登場する[fig.1]。そこでは、私たちが操作できない大自然である風景は制御不可能な社会の暗喩として、身体は自分の意志で動かせることから、制御可能な個人として捉えられる。鑑賞者は、その身体に自らを投影し、その風景に私たちを取り巻く社会を代入し、双方が成す光景から、自身が社会や予期できない出来事とどう向き合っているかを振り返ることになる。潘は非常に意識的に、その風景と身体を表象として用いるのではないだろうか。

では、いかにして、それが図られているのか。今回制作された2点の《揺れる垂直》と展覧会最終日に行われたパフォーマンス《垂直な手》を振り返りながら考えてみたい。

《揺れる垂直》はどちらも映像作品で、一つは、林が風で揺れる景色と複数の人の挙がった手が揺れていく様子を対にした作品、もう一つは風で揺れる林に向かって人が直立し手を挙げつづける作品である。ここでは、前者を《揺れる垂直(手)》と、後者を《揺れる垂直(一人)》と表記することにして、話を進めたい。

手を挙げる行為は、参加の意思や主張を表わす。《揺れる垂直(手)》において、その行為は、個人の意思によるものか、強要されたものか。疲れて揺れていく様子は、その意思の弱さか、強制への抵抗か。風に任せて揺れる林と、行為を強制された手(人)だと捉えると、集団や社会に対する個人のなす術のない弱さを表しているように見える。しかし一方で、重力に逆らう手の揺れ方はさまざまで、コントロールできない状況に対して各々で格闘しているようにも思えるのである。

また、一つ一つの手の個性は明らかだが、顔は画面の外にあり、表情はわからない。そこにあるのは使命感をもつ精悍な顔つきか、強制に耐え忍ぶ顔か。ここに示唆されるのは、自らの意志ではなく社会の要請によって身体が動かされる状況である。つまり、私たちが社会的な身体として周囲の要請を受け入れるとき、最終的に自分の意志で肉体を動かすとしても、そこに制御不可能な身体が現れる状況を指している。

《揺れる垂直(一人)》においても個人と社会・集団との対比を想像できる。直立し挙手し続ける身体は、他者である林に何か主張しているようにも、木の幹のように真っすぐ伸びて同化しようとしているようにも見える。この光景は、周囲に反発をしたり、迎合したりを繰り返す個人の姿が重なる。最後には、身体の力は抜け、手はだらりと下げられ、挙げる行為を辞める。その行動は主張や迎合を諦めたようにも、解き放たれたようにも見え、ありのままの身体が現れる。このように、反発と迎合を繰り返すような様子は、自分の意志によるものか外部からの強制かは明らかではなく、身体の制御不可能性を示唆することとなる。

《垂直な手》[fig.2][fig.3]は、創作棟の廊下から東側の森へ伸びる道で行われた。曲がりくねった道の入り口には手の彫刻が白い台に置かれ、観客は林を背景にして彫刻を眺める形で待っていた。しばらくして潘は森の奥から現れ、ときどき落ちた枝を拾いながらこちらに向かって歩いてくる。台の前に着くと、林に向かって彫刻の手を持ち上げ、垂直に上げたまま静止した。10分ほどの見守られたのち手を下ろし、拾ってきた枝を林の枝に戻しながら森の中に帰っていった。

ここでも《揺れる垂直(一人)》と同様の解釈ができるが、大きく違うのは観衆の存在である。彼らは彼の背中を、つまり潘と同じ方向を向いていた。その光景は、潘と観衆は一つの集団として、潘が代表して何かを宣言しているようにも見え、林と人間とが向き合う様とすると、異種同士の和解を訴えるようなシーンも想起させる。そのとき塑像は生贄のようでもあり、一方で、枝を拾い木に戻すという行為は、林から人が奪ったものを再度、彼らに戻そうという行為にも感じられるのである。そうすると、潘が林と人間、二つの社会を自由に行き来する存在にも見えてくる。その姿は、制御不可能な社会と制御可能な身体とのあわいに揺れ動きながら存在する身体、つまり私たちの存在そのものを象徴しているのである。

明確だと思われた社会と個人の関係は、潘の作品を前にすると、思索を重ねるたびに境目がぼやけていく。つまり、潘のたくらみは、風景=制御不可能な社会、身体=制御可能な個人といった私たちの思い込みを入り口に、二つの曖昧さを見せてゆくことなのである。

2016_海で考える人_2

fig.1
《海で考える人》映像、2016年

fig.2

fig.3

fig.2,3
《垂直な手》パフォーマンス、2017年

ACAC藩逸舟 3

《揺れる垂直》
2チャンネルビデオインスタレーション、各8分33秒
2017年
撮影:山本糾

ACAC藩逸舟 2

《揺れる垂直》
ビデオ、10分47秒、2017年
撮影:山本糾