カエテミル

2016年10月22日(土)~12月11日(日)10:00~18:00 会期中無休・入場無料

有川滋男

ARIKAWA Shigeo

《(Re)(Re)interpretation》
壁面にビデオプロジェクション(8分間のループ)、拡声器、カラーコーン
2016年
撮影:山本糾

物語は回り続ける

伊藤聡子

暗い部屋の中にはカラーコーンとメガホンがあり、風の音が聞こえてくる。流れる音の方向にあるもう一つの部屋では、映像が左右の壁に映され、9つのメガホンが設置されている。メガホンからはその映像を描写する複数の者の声が聞こえ、場所も登場人物も不明なままある時間が切り取られる。この作品は、有川が制作した言葉のないひとつの映像に対して9人の鑑賞者が物語を制作、その物語を朗読する声を作家が編集し、最終的にインスタレーション作品として作り上げたものだ。

有川は映像や写真を媒体に、容易に認識しがたいイメージを提示することによって、イメージが認識の中で硬直するのを遅らせ、「見ること」の意味を拡張させる作品を制作している。このプログラム以前の5年ほどの間に制作された映像作品で、作家は言葉を用いることはなかった。「見る」行為は、刻々と移り変わる時間とそれに伴う記憶、感覚に付随するため「見続ける」行為が必須であるとして、言葉という共通認識によってイメージを狭めたり限定したりすることを回避するためだ (1)。しかし今回の滞在制作をきっかけに、作家による言葉ではなく他者の言葉を用いることによって、見えるものの輪郭を緩める試みがされている。ある映像から作られた物語は、映像に対する解釈と創造を含み、最終的な作品は作家の手ですべてが作りこまれない客観性をもつ。作家はカメラのフィルターを通して対象をとらえてきたが、この作品では鑑賞者、つまり作品の解釈を通して作品を再度とらえようとしているかに見える。あるいは作品から解釈が生まれるその作用を通して、「作品」そのものを提示しているともいえるだろう。

「見ること」を追求する有川にとっての今回の展覧会テーマ「カエテミル」は、「変えて」「見る」ことであった。制作された映像作品の中では、日常で使われる物やそれに伴う行為の意味が変えられ、一見登場人物が何をしているのかわからない映像が制作された。見る者は映像をどう捉えるのか。風車が回る草原を舞台に、場面は淡々と進んでいく。

認識しがたいこの映像は、「見る」という経験を揺さぶろうとする。見る者はそれまで当たり前だと思ってきたものの意味をはぎ取られて日常から放り出されると、それが一体何であるかを探し始める。真っ新な目で対象を一から観察してみると、目に映る色や形、聴こえる音が記号となり、流れる映像の中の文字にならない文字が読み解くための手がかりとなる。ここでは、目に映るものの形からさらに隠れた背景を見つけようとする意識と、無意識に視覚以外の知覚とを必要とする。それまでの個人の経験をどうにか繋ぎ合わせ、またその時点で頭の中で起っているものをかけ合わせてそれぞれの答えを見つけていく。有川にとって人がものを見ている状態とは、目のレンズを通して網膜に像を映し出すことではなく、そこから何を選びどう見るか、見る者の脳に浮かぶ像が、記憶、または触覚や聴覚など知覚を通して見えてくることだ。見る行為がより個人の判断に委ねられ、その鑑賞者の数だけ異なる解釈が生まれた。解釈した出来事、あるいは得た発想から言葉が紡がれて物語となった。

奥の部屋の向かい合った壁それぞれに物語のもととなるひとつの映像が映されているが、入口から見て左右にわける構成は、目の焦点をぼやけさせる。不意に異なる角度や構図の場面を映し出してひとつの映像の幅を広げながら、鏡のように呼応し、またはイメージを反復させている。映像の中にも登場するメガホンは、この場ではスピーカーの役割をし、9つそれぞれから一人一人の物語の音声が流される。メガホンは声を拡大するための機器であり、音を変換して外へ発するが、この作品では何かを「変化させる媒体」である。物事は媒体を通して変化される、解釈されるという過程から見れば、メガホンは人を示しているともいえるだろう。異なる音声を自由な位置で聞くことができるように、そのスピーカーは床全体に点在された。位置によって聞こえてくる言葉は理解しにくかったり、聞き間違えを起こさせたりするが、その言葉の断片の掛け合わせは、別の文脈と意味を作り出す。映像を鑑賞する者にとっての「解釈」は、制作段階において言葉のない映像から物語を作ることの他に、作品として完成したインスタレーションの中で別の形に変化しながら繰り返される。また、この空間で耳から得る他者の物語によって、鑑賞者自身の目で見る映像の解釈は変様されていく。

最後に登場人物がメガホンに向かう場面では、それまでの映像の何かしらの意味を表す言葉を発すると思わせるが、その期待をはずし、彼は鼻歌を歌い始める。インスタレーション制作における音声の編集はまた作家の「解釈」であるが、その過程で「物語」は「言葉」へ、さらに意味だけが取り除かれ、「音」に近いものへと解体されていった。言葉はイメージを浮かばせながらも、意味を成すためではなく音として聞こえ始め、歌は言葉と音を混在させたものとしてメガホンから発せられるかのようだ。音は意味を形成する言葉とは異なる要素だが、この作品ではイメージを伝える役割として並列し、空間を漂う。画と音と言葉に分解することで空間は作られ、この作品は見る者を映像の中に包み込む。ここでの鑑賞者は視聴感覚のそれぞれをつなぎ合わせ、映像の解釈、物語を再構築させる。新たな解釈を生む方法として機能しているのだ。

一つの映像から生まれる様々な解釈を目の前に提示することで、人が見るものの違い、言葉の作用を含んで見ているものが変化していく曖昧さを現した。「見ること」は一時的な認識としてイメージを固定させることではなく、視覚のみならず周囲を取り込み更新し続けていく状態であることを提示する。映像の中で回転する風車は、更新され続けるイメージと時間の経過を表すのだろうか。9つの物語の9という数字は、あと一つで何か見つかるのではないかともどかしい。これらの物語も固まることを拒み回り続ける。

 


 

(1) 2016年11月7日に行った有川滋男へのインタビューより(『AC2』18号、国際芸術センター青森、2017年)。

有川滋男 1

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