「再考現学 / Re-Modernologio」 phase1 : 衣食住から社会をまなざす

2011年7月23日(土)~ 9月19日(月)10:00 - 18:00/無料

飯田竜太

IIDA Ryuta

《Book like water that flows like waterfall.ー水は低きに流れ、思考もまた低きに流れるー》

物質としての「本」あるいは行為としての「読む」の構造を造形する

近藤由紀

「本」ほどその非物質的特性と物質的特性の両方が人々に愛され、しばしばその非物質的特性が強い影響を与える物体はないのではないか。その意味で本は「人間」に似ているのかもしれない。

飯田竜太は本や新聞といった紙を素材として作品を制作してきたが、彫刻を修めた飯田にとって、その造形の意識は彫刻的な思考から発している。紙を一枚一枚を 切り重ね、造形するその技は、それらをその素材感を残したまま驚くべき姿に変貌させる。いわゆる「彫刻科」で選択するような石や木や鉄といった素材や手法に対する疑問から身近な紙を素材として選択したが、もともと「本」好きであった飯田はその本の中身や文字に関心を持つようになったという。

一方で「あらゆる彫刻家は、木や鉄などの素材を自分が扱える単位に置き換えて作品を作ります。単位が決まればその連続性や組換えで彫刻は成立するのです。自分の場合、どうしたら彫刻が成立するのか、その素材を考えていた時に、身近にあったものが本でした」[i]と 飯田がいう場合、そこには本という素材がもつ豊かな潜在的な意味性に対する関心のみならず、本を造形を成す一単位と捉え、その構造に関心を寄せているのがわかる。したがって飯田の作品には、その内容や行間から情報のみならず無限のニュアンスと象徴世界を繰り出す本や雑誌や手紙の中味に関する特性のみならず、開き、めくられ、閉じられるという運動性、そして文字が印刷された紙の集合体という物質的な特性への言及もみられる。一方でそれゆえにしばしばその作品は独特な反応を引き起こす。

≪I see, I can’t see—目に見える、見えない—≫は、飯田が収集した岩波の古い文庫本に切り込みを入れた作品である。飯田は自分が収集していた貴重本がし ばしば借りられたまま返却されずに失われたことをきっかけに、読んだ時間、内容を自分のものとして完結させるために、本を切って開くことを思いついたのだという。その感覚は、読むことで不特定多数の所有となりうる本を、昆虫採集の標本のようにその流れから切り離し、自らの完全なる所有にすることにも似てい る。だが一方で本来の文脈から切り離された本は、本にまつわるあらゆる時間と経験的感覚をその内に閉じ込め、変容する。

開かれた本は、本としての自然な形態を保ったまま彫刻されている。「本を彫刻する」こと、すなわちそれは一枚一枚の薄い紙に切り込みを入れ、その重なりによってある表面を作り出すことであり、切り込まれ方とページの重なり方によって、展示された見開きのページの文字は奇妙に歪み、重なり、消失しており、その多様な方法によって、それぞれの本がそれぞれの表情をみせている。何が書かれているかは読むことが出来なくても、その見開きページに並ぶ踊るような文字の断片には、どこかしら別の物語を、別の感情を、別の世界を紡ぎだしうる力がある。それがより生々しく感じられるのは、一文字一文字は何であるか推測できるため、その音のようなものは追えるが、文章として成立しないがために、瓦解した文章が不穏な音の連鎖を意識の中にばらまくからであろうか。作品は読むということから解放さ れた内側を痛々しく晒すことで、別の行間を獲得する。そのためであろうか、その彫刻の繊細な技への感嘆が聞かれる一方で、「本を刻む」という行為に対し、 少なからず複雑な心情を吐露する鑑賞者もいた。それらは物としては日々大量に処分される消耗品であり、例えば石や木や単なる紙に対してはそのような批判が おきないというのに。そのことは本という物質が「読む」という行為を通して非物理的な意味で誰のものにでもなりうるという不思議な所有権が発生することと、本という媒体に含まれる「人間の叡智」としてのテキストに対する不可侵の敬意のようなものが存在するからではないだろうか。

だが一方で この作品は、こうした本の非物質的な特性にのみ焦点をあてて制作された作品ではないだろう。飯田が作品を一つの単位として捉えられた行為の積み重ねによって成立すると考え、「本を切り抜く」行為をその一単位として捉えているとするならば、ここにあるのは無数の繰り返しとその置き換えの集積であるということもできる。飯田の刻む行為にはある種の感情が託されるようなところはみられない。そして飯田の作品にとってこの「連続性と置き換え」、「繰り返し」は、それ自体が重要な要素であり、それは飯田の作品として「本」によくあらわれている。

蔓巻社(社は旧漢字が使われている)なる出版社の「蔓巻文 庫」の体裁をとった作品がある。飯田竜太著『雄弁なる文字』というこの作品は、時代を感じさせる退色した紙と古い種類のフォント(おそらく わざと)が使われ、ロゴが印刷され、最終頁には宣伝のための著者「飯田竜太」の過去作品一覧や奥付まである157頁からなる文庫本である。その中身は 「Oratorical type1」から9の章立てからなっており、1頁毎に「文字だと認識する過程」「繰り返し」「脳の中格子、知識の固定」「本としての成立を不可能にする」 「文字が持つにおい」などといった単語や文章の一センテンスが句読点やカッコなど体裁を組み替えられながら反復されている。それらは飯田の作品や制作についてのキーワードであり、思考のプロセスのようでもある。それは繰り返される疑問であり、組換えによる実験であり、その探求のようでもあ る。

またここに2010年11月に開催された飯田の個展カタログ『Verbalizes 出会えないから、言葉で』[ii]が ある。立派な分厚いカタログでさぞかし沢山の評論と作品写真が掲載されているのだろうと思ってページを繰ると、様子がおかしい。よくみるとそれは32頁のカタログ部分が5回繰り返して収録されているのである。32頁分は通常のカタログの体裁をとっているにも関わらず、壊れたレコードのように同じ部分が何食わぬ顔をして繰り返されるだけで、その情報としての価値が変質し、あらゆるものが空虚になっていく。アンディ・ウォーホルは事故現場の写真を繰り返し粗く 印刷したものを提示することによって、悲惨さの無化とマスメディアによる情報の変質を示唆したが、飯田の作品からも繰り返しによる変質、置き換えが生む差 異による変質に対する関心がうかがえる。

日々消費されていく媒体の象徴的利用、変質していく情報への関心は≪Book like water that flows like waterfall.―水は低きに流れ、思考もまた低きに流れる―≫にもみられる。この作品では12角形の枠に6冊ずつ計72冊の古い週刊誌が吊り下げられている。それぞれの雑誌は表紙をそのままに残したまま、中身が短冊状に刻まれ、天上から吊り下げられ、床に到達した紙片が山を築いている。紙面は短冊の幅が狭いため文章としては読むことはできないが、単語や写真の断片を認識することはでき、色あせた紙とあいまって、早送りで流れるニュース映像のように時間が週刊誌からこぼれ落ちているようにもみえる。12角形の中に入ると古本屋の店内のように、古い紙の匂いが充満する。当時はそこに書かれている情報があたかも最新で最重要な情報であるかのように摂取されていた週刊誌は、今となってはもはや内容も外形もノスタルジックな感情しか呼び起こさず、その中心なき 表層性を強調する。ばらばらに解体され、流れる滝のように吊り下げられた大量に消費された雑誌は、「雑誌」の持っている要素を解体することで、隠し持っていた無形の意味を有形化させるように、「週刊誌」という雑誌の特質、情報の価値、時代の流れを目の前に提示する。

雑誌が不特定多数の流れ消 えゆく時間を対象にしていたのに対し、≪Verbalizes, Because I can’t see you―出会えないから言葉で―≫では、個人の記憶や消えゆく時間を扱っているように思われる。ここではより私的な利用がなされる紙媒体――旅先からの絵葉書――が使われている。送られた絵葉書はそれを書いた人物と受け取った人(広げても個人的に関係のある人)にしかその価値はなく、個人的であるがゆえに その所有者/読者も限定される。それは大切な思い出であると同時に、秘められるべき存在ともなりうる。作品における絵葉書の文字はほとんどがくりぬかれ、 文章を読むことはできないが、絵や写真は大体の見当をつけることはできる。穴のあいた絵葉書は、記憶や想像の中で補完され、完全体を想像されることで個人に属することをやめ、切り抜かれた穴をもつことで再び別の匿名化された個々の記憶を受容する。飯田はさらにこれをワークショップという形で参加者を募り、 絵葉書の提供を受け、切り抜きの初段階の作業を共に行った。それはより多くの個別の記憶を宿す絵葉書をそれぞれの個性が反映されるような仕方でくりぬくこと、すなわち個性を残しながら匿名化することであったようにも思われた。

このように飯田の作品においてその制作の方法は構造的に捉えられながら、しばしばその素材のもつ意味性が強い影響を作品と作者そして鑑賞者に与えている。それはそれらが高度な人類の知の産物であり、木や鉄と異なり自然物でもなければ、原始的な素材でない紙媒体を扱っているからにほかならない。だが飯田はその意味性を強調するのではなく、あくまで物としての「紙媒体」とそれが有する構造やシステムを制作の根幹とすることで、両者の特性の微妙なバランスの中で両者の領域を際立たせていく。

[i] 『写真以上、写真未満』、「第五章 贈る 飯田竜太さん 『本』から生まれるオリジナル封筒に写真と言葉を添えて」(取材・文・撮影/服部貴康)、翔泳社、2007年、79頁。

[ii] 飯田竜太「Verbalizes—出会えないから、言葉で—」2010年11月6日~12月4日、Takuro Someya Contemporary Art, Tokyo.

 

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《Book like water that flows like waterfall.ー水は低きに流れ、思考もまた低きに流れるー》

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《Book like water that flows like waterfall.ー水は低きに流れ、思考もまた低きに流れるー》

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《I see, I can't see.ー目に見える、見えない》

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《I see, I can't see.ー目に見える、見えない》

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《I see, I can't see.ー目に見える、見えない》

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《I see, I can't see.ー目に見える、見えない》