吃驚 BIKKURI

2010年10月23日(土)~11月21日(日)

山本 聖子

YAMAMOTO Seiko

撮影:山本糾

自立した空白

日沼 禎子

夜の最終便で大阪空港へ。ドスン、と到着し、東へ向かう高速バスに乗り継ぐ。自動車やタイヤの広告塔、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、白やオレンジの街路灯たちを車窓に眺めては、追い越していく。高速道路からの風景など、何処も同じようなもの。けれども何故だか通る度に気になって、視線を奪われる場所。丘陵地を占拠し、まるで光の要塞のように闇に浮かぶもの。その正体は、万博公園に隣接する広大な住宅街に連なる中高層住宅群。日中、周囲の緑とコンクリートがコントラストを見せる風景は、夜は光と闇との、その際立つ人工美へと姿を変える。縦横に規則正しく区切られた階層、同じサイズの窓。1Kや2DKや、4LDKに規格された空間の連なり。無機質で無個性の、ミニマルな環境。しかし、それはあくまでも外側からの視点にすぎず、そのひとつひとつの窓からの光は、その光の数の分だけの、人々の暮らしがあることを証明してみせている。ある人はソファで静かに本を読み、ある人はヘッドホンから聞こえる大音量の音楽を聴き、ある人は温かいスープを分け合っているかもしれない。バスの心地良い振動に身を任せながら、そうしたそれぞれの営みに思いを巡らせていると、やがていつものように心地よい眠りが降りてくる。山本聖子が育ち、現在も居を構える、ここ、千里ニュータウンは、戦後日本初の大規模ニュータウンとして開発され、1962年にまちびらき、その8年後の70年には「人間の進歩と調和」をテーマに掲げた大阪万博開催のため、更なる土地開発が進められた、いわば、戦後日本の高度成長を最も象徴する場のひとつである。81年生まれの山本にとって、時は日米安保闘争やベトナム戦争が終息し、ベルリンの壁崩壊、そして冷静の終結へと世界がグローバル社会に向けて舵を切るその途上にあった。そうした内外の激動の気配を無意識の中に覚えながら、毎日、この街の空を見上げてきたのだろうと思う。

ACACにおいて山本は、≪independent empty(自立した空白)≫、≪the empty shadow(空白な影)≫、≪peeled light(剥けた光)≫の3点を制作した。ギャラリーのエントランス近くに据えられたこれらの作品は、空間を共有する1つのインスタレーションとして見ることができるが、しかし、それらは、個々に独立した彫刻作品である。それぞれのタイトルにある「空白」「自立」「剥ぐ」という言葉は、極めて彫刻的な概念として選ばれている。前者2点は、近年山本が取り組んでいる手法を新たに展開させたもので、新聞の折り込みチラシなどで良く目にする広告の間取り図を切り抜き、ラミネート加工によって素材を強化し繋ぎ合わせる手法で作られ、形もスケールも自在に変化させることができる。≪independent empty≫は、縦560cmx横520cmに間取り図を繋ぎ合わせ、網上の壁がコンクリートの床に垂直に立ちあがるかのように天井から吊されている。脆弱な線によって繋がれた壁は重量を感じさせず、プラスティックの表面が照明の反射によって微細に輝き、向う側の景色を透かして見せ、また、モノクロ1色の表面に対し、裏面はさまざまな印刷色に彩られている。≪the empty shadow≫は、同じく間取り図を直線状に繋ぎ合わせたもので、地上から約4mほどの高さから吊るされており、ギャラリーの壁に微かにその影が映し出されている。私たちは天を仰ぐ格好で入口からギャラリー奥に向かって伸びる線を目で追うが、終わりなくどこまでも伸びゆくような可動性を感じ取ることもできる。≪peeled light≫は、天井から吊るされた2本の細い蛍光管の上に、8個のシャーレが載せられている。シャーレの中には、3~4cm角程の台形状に切り取られた色の異なるフィルムが1枚ずつ入れられている。このフィルムは、山本が夜の集合住宅の窓を撮影した写真を透明シートに転写し、切り取ったものである。それぞれの制作にかかる膨大な仕事量と時間の長さを想像するに易いだろう。しかし、いずれの作品も、手仕事と思考の痕跡は削ぎ落とされ、個性というものが一切剥ぎ取られている。私たちはそこに佇むとき、その柔らかな光と影のコントラストが作り出す美しさに身を沈めることができるが、ここにある3つの作品が何を意図し伝えようとするかを感じ、受け止めることはできない。やがて作品に近付いて仔細に観察し、広告の間取り図や、集合住宅の窓であることに気付いた途端、私たちの想像が宇宙的に広がっていくことを感じるだろう。空白の中にある無限。あるいは、見えないものを見ようとする人間の欲望。山本が彫刻に求める強度とは、物質としての重さや質感を超えたところにあるもの。そこに在り、人々がその対象へ向き合うための自由を約束し、受け止めること。それは「器」であり、今は空っぽである間取り図は、過去の誰かが、そして未来の誰かが暮らす場所としての「器」を象徴する。その集合体による構成は、解体と再生を繰り返し続ける街の姿にも重ねられ、現代の都市へと差し出されたモニュメントのようでもある。

さて、何かを受け止めるものとしての「器」への探究は、「器」そのものを用いてきた過去の経験から連綿と繋がっている。2006年に発表した≪phenomenon―混Chaos≫(1)(fig.1)、≪Untitled≫(2)(fig.2)では、素焼きをせず乾燥させただけの土の器が、水の浸食によって破壊されるプロセスを表した。また、同年発表の≪ZERO≫(3)(fig.3)では、壊れた器をステンレスメッシュに置き換え、元の器の形に形成してみせた。ある種、パフォーマティブな作品ではあるが、ここでも限りなくアーティスト自身の気配は消し去られている。そこに立ち、存在するものとしての彫刻(物)が語りかけるのではなく、対峙する人々に物語を委ねる。「器」そのものだけではなく、内包され、扱うもの所在、振る舞いへの興味。山本は、均一化によって失われる身体性、曖昧になる個々の存在を「とにかく、舐めて、触れて、確認したいのだ。」と言っている。

かつてリチャード・セラが1981年にニューヨークの連邦政府ビル前に制作した≪傾いた孤(Titled arc)≫は、国家事業の公共性をめぐる問題であると当時に、都市空間における建築、美術の関係性に対し大きな問題を投げかけた。巨大な鉄を都市の中心に屹立させた者と、都市の現在を柔らかなプラスティックに包み顕在化させようとする者。30年という月日を経て、私たちは、実体不明な社会の中で、不確かに漂い続けるのだろうか。山本がそうして作り出す「器」は、すくいあげ、こぼれ、残る、固体であり液体のジェル状の危うさと、その危うさゆえの美をたずさえて、ここに自立している。
-----------------------------------
(1) 一方の器には天井から一滴ずつ水滴が落ち、穴が開く。次第に器はバランスを失い変形する。もう一方の器には、作者が直接水を注ぐ。急激な土の膨張で、器は爆発的に破壊する。
(2) 100個の焼かれていない器を鉄板の上に置き、水を注ぎ込む。次第に器は割れ、水が流れ出し、鉄板の上に鮮やかな黄色(錆色)の痕跡を作り出す。
(3) 紙の上に置いた土の器に水を入れ、器が壊れる。その破片を鉛筆でトレースし、その線をもとに型紙をおこしたものをステンレスメッシュに置き換える。

S山本04 (722x541)《independent empty》

 

S山本12 (722x541)

《peeled light》

S山本09 (722x541)

《the empty shadow》

S山本03 (541x722)

撮影:山本糾

Y1-1

Y1-3 (533x800)

Y1-4

fig.1 《phenomenon-混 chaos》土、水、紙、アルミ、270x270cm(紙)、直径70xh50cm(器)、
2006年。

Y2-1

Y2-2

fig.2 《Untitled》土、水、鉄、450x180x10cm、
2006年。

Y3-1 (590x800)

Y3-2 (800x533)

Y3-3

fig.3 《ZERO》ステンレスメッシュ、紙に鉛筆、土、綿糸、アルミ板、270x450x300cm、2006年。

S山本14 (722x541)